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歴史は存在しない

日本は、周辺諸国との間で未だに「歴史」認識に対する問題を抱えている訳であるが、しかし、「歴史」そのものはそもそもどういったものであるのか、一つ考えておく必要があると思う。

まず念頭に置かなければならないのは、全ての過去は本当に存在したのか?という問いである。

人はとかく、過去は存在する、という前提を歴史認識に持ち込む。しかし結論として、それは幻想に過ぎない。過去があったではないか、という人もいる。しかし、過去があった、と言う人は、過去はない、と自ら告白してしまっている。

過去があった≠過去がある

更に言えば、過去がそもそもあったのか、という事さえ、我々は知る由がない。過去は現在の共時性に回収されるのだから、それが過去のものであることを示す手段は、「論理的には」有り得ない。我々は須らく、いま、ここ、の事しか見つめることは出来ない。

しかしそれでも、過去はやはり「ある」ように思えてしまう。我々は確かに、昨晩の晩餐、3年前の旅行など、全て思い出すことができる。

そこには、私はやはり、言語が関係してくると思う。

我々は、時間を「変化するもの」として捉える。例えば、時間が止まったSFやコメディの描写では、全てのものが悉くその動きを止める。そして一方、流れる時間の中で、我々は、様々な変化を目の当たりにする。「昔ここには立派な城があったが、合戦の後焼かれてしまって、今はもう跡があるだけだ。」-- といったように。

そしてその変化を、我々は、言語の内に見出す。変化の認識とは、すなわちAからA'への変化、またはAからBへの変化に対する認識だろう。この認識が成立するためには、その前後の両者に差異が見出されなければならない。そしてその差異は、言語化され、現在/過去という観念の内に認識される二項対立を創り出す。

そうして人は、過去の存在を観念の内に是認する。そしてともすれば、その是認した観念的な過去を、実在した過去の写しであると考えてしまう。

人が思い描く過去の形態は二つある。観念の内の過去である「思い出」、そしてそれが記述された「歴史」である。

「思い出」は、大方の人が感覚的に感じている通り、もちろん正確ではない。もっと言えば、実在した過去の写しではない。小学校の親友との鬼ごっこの思い出には、数十年顔を見てもいないクラスメイトの顔は出てこない。覚えているもののみから構成される過去が思い出であって、そしてそれは同時に優れて主観的であり、客観的事実として--存在するべき--の過去とは対極に位置付けられる。

では、歴史はどうなのだろうか?

歴史的事実、という言葉があるように、歴史とはそのまま真なるものとして捉えられる。思い出としての過去は、主観的な偽である、ところが歴史としての過去は、客観的な真である、というのが大方の見解であろう。結論から言えば、歴史も思い出も大差はない。歴史とは、記述された思い出である。

思い出は、記述された途端、その世界を固定する。人の観念の内にある間はあやふやで時系列もままならなかった思い出は、記述された途端、それが太古の昔から確固としてあったかのように振る舞う。そしてその思い出が事実を語るものとして記録される以上、通常は、そこに論理的破たんは見られない。

歴史が真とされるのは、結局、その歴史記述の論理に破たんがないからである。歴史が真であることと歴史記述が真であることは全く別物である。

従って、歴史とは、 そもそも実在しないものである。そしてあるのはただ、「歴史」という名を持つ、言語によって紡がれたテクストのみである。
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