戦争映画批判への批判 (1/4)
- 2016/12/17
- 11:41
0. はじめに
第二次世界大戦の敗北をきっかけに、一定程度米国主導のもとではあったにせよ、日本は軍国主義を放棄し、平和憲法を制定した。特に第9条について鑑みた場合、そこには侵略を目的とした戦争の放棄が名言されており、憲法護持か改正か、その政治信念の左右を問わず、あくまで9条の"精神"である侵略的戦争の放棄に関しては、多くの人が首肯するところである。
しかしややもすれば、その反戦意識や平和主義は、逆に硬直したイデオロギーとなる可能性を含んでいる。一部の革新派知識人の、戦争を取り扱った特定の映画に対する、その彼等が認めるところの好戦主義を根拠とした感情論的な排撃は、その映画に対する解釈の幅を狭めてしまうに留まらず、思想と言論 -- 好戦主義的思想や言論のみを言っているのではない -- の自由剥奪に繋がる恐れがある。
一つ、例を出してみよう。ソマリアに対する超大国アメリカの軍事介入に於ける失策と混乱を題材にした、リドリー・スコット監督の2002年の映画『ブラックホークダウン』に対して、加藤(2002)は、「実話をベースにして、ソマリアに国連平和維持軍として駐留していた米軍の戦闘が生々しく、リアルに描かれる」(p. 28)と書いているのにも関わらず、「アメリカの身勝手さが肯定的に描かれているところが問題である」(p. 28)という評価を下している。
ここでは、アメリカの覇権主義的行動の是非については述べない。ここでの問題は、加藤の批評にある。
加藤の評価は、「人類が犯す最大の愚行であり犯罪である」(加藤、2002、p. 28)戦争に対するものとして、人の感情の吐露としては正解なのかもしれない。しかしそれは、アカデミアに身を置く彼の言葉としては適切だろうか?彼の評価は既に論理的な破綻を犯している。それは、(制作物ではあるにせよ)本人が認めるところの"事実"に沿った映像を見ているはずであるのに、それへ「戦争に肯定的」という"価値観"を付与しているのが自分であるということに無頓着であることに明らかである。
戦争映画に対するかような余りにも歪んだ批判は、逆に表現の自由を奪い去るような事態を招きはしないだろうか。そこで、好戦主義者たる石原慎太郎の製作した好戦映画と一般に見做されがちな、『俺は、君のためにこそ死ににいく』を、敢えてそういった先入観を取り去って鑑賞してみたい。結論を先に申し上げる形になるが、そこには、洗い出された平和主義者の欺瞞、即ち、主観と偏見に満ちた他者の排撃というものが見えてくるはずである。
第二次世界大戦の敗北をきっかけに、一定程度米国主導のもとではあったにせよ、日本は軍国主義を放棄し、平和憲法を制定した。特に第9条について鑑みた場合、そこには侵略を目的とした戦争の放棄が名言されており、憲法護持か改正か、その政治信念の左右を問わず、あくまで9条の"精神"である侵略的戦争の放棄に関しては、多くの人が首肯するところである。
しかしややもすれば、その反戦意識や平和主義は、逆に硬直したイデオロギーとなる可能性を含んでいる。一部の革新派知識人の、戦争を取り扱った特定の映画に対する、その彼等が認めるところの好戦主義を根拠とした感情論的な排撃は、その映画に対する解釈の幅を狭めてしまうに留まらず、思想と言論 -- 好戦主義的思想や言論のみを言っているのではない -- の自由剥奪に繋がる恐れがある。
一つ、例を出してみよう。ソマリアに対する超大国アメリカの軍事介入に於ける失策と混乱を題材にした、リドリー・スコット監督の2002年の映画『ブラックホークダウン』に対して、加藤(2002)は、「実話をベースにして、ソマリアに国連平和維持軍として駐留していた米軍の戦闘が生々しく、リアルに描かれる」(p. 28)と書いているのにも関わらず、「アメリカの身勝手さが肯定的に描かれているところが問題である」(p. 28)という評価を下している。
ここでは、アメリカの覇権主義的行動の是非については述べない。ここでの問題は、加藤の批評にある。
加藤の評価は、「人類が犯す最大の愚行であり犯罪である」(加藤、2002、p. 28)戦争に対するものとして、人の感情の吐露としては正解なのかもしれない。しかしそれは、アカデミアに身を置く彼の言葉としては適切だろうか?彼の評価は既に論理的な破綻を犯している。それは、(制作物ではあるにせよ)本人が認めるところの"事実"に沿った映像を見ているはずであるのに、それへ「戦争に肯定的」という"価値観"を付与しているのが自分であるということに無頓着であることに明らかである。
戦争映画に対するかような余りにも歪んだ批判は、逆に表現の自由を奪い去るような事態を招きはしないだろうか。そこで、好戦主義者たる石原慎太郎の製作した好戦映画と一般に見做されがちな、『俺は、君のためにこそ死ににいく』を、敢えてそういった先入観を取り去って鑑賞してみたい。結論を先に申し上げる形になるが、そこには、洗い出された平和主義者の欺瞞、即ち、主観と偏見に満ちた他者の排撃というものが見えてくるはずである。
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