戦争映画批判への批判 (2/4)
- 2016/12/17
- 11:42
1. 鑑賞の視点: 「作者の死」
ロラン・バルトの主張する、「作者の死」。作品の解釈が「作品を生み出した人間の側に求められている」状態の克服、即ちある作品に於いて、自ら多様な意味解釈を目指す概念である(石川、2015、pp. 78-80)。そしてこれは、石川(2015)によれば、「作品のうしろに作者や社会や時代を見ることに満足している」(p. 80)ことに対する批判である。ここではこれ以上の詳説は避けるが、そのバルトの主張するところの真髄は、作品に意味付与をするのは作品を鑑賞する者であって、作品の鑑賞とは決して、作者が作品に込めた主張の「解読」ではない、というところにある。
翻って、戦争映画に対する批評を見た場合、単なる「解読」の域を出ないものが数多くある。先に挙げた加藤の例はまさにそのような例であって、加藤の批評に見られる誤りは、自らが解釈した価値観を、あたかも作者が与えているかのように解釈している点である。
本稿の分析対象である、石原慎太郎の監督映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』(以下、本作品とする)は、かような批評を受けやすい近年の代表作の内の一つであろう。
石原は確かにその言動に見られるよう保守的な思想を持つ人である。国家観に関しても、「平和憲法国家」のような「優しい国家」は石原にとって、「問題外に嫌悪の対象」なのであり(渡辺、2012、p. 60)、また、石原の理想とする国家観を、渡辺(2012)は「父なるもの」(p. 59)と表現している。
しかしその石原像を敢えて本作品の鑑賞と批評に反映せず、本作品そのものの表現を分析すると、どのような解釈が導き出せるのか。これが本稿の分析の基本的な視点である。
ロラン・バルトの主張する、「作者の死」。作品の解釈が「作品を生み出した人間の側に求められている」状態の克服、即ちある作品に於いて、自ら多様な意味解釈を目指す概念である(石川、2015、pp. 78-80)。そしてこれは、石川(2015)によれば、「作品のうしろに作者や社会や時代を見ることに満足している」(p. 80)ことに対する批判である。ここではこれ以上の詳説は避けるが、そのバルトの主張するところの真髄は、作品に意味付与をするのは作品を鑑賞する者であって、作品の鑑賞とは決して、作者が作品に込めた主張の「解読」ではない、というところにある。
翻って、戦争映画に対する批評を見た場合、単なる「解読」の域を出ないものが数多くある。先に挙げた加藤の例はまさにそのような例であって、加藤の批評に見られる誤りは、自らが解釈した価値観を、あたかも作者が与えているかのように解釈している点である。
本稿の分析対象である、石原慎太郎の監督映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』(以下、本作品とする)は、かような批評を受けやすい近年の代表作の内の一つであろう。
石原は確かにその言動に見られるよう保守的な思想を持つ人である。国家観に関しても、「平和憲法国家」のような「優しい国家」は石原にとって、「問題外に嫌悪の対象」なのであり(渡辺、2012、p. 60)、また、石原の理想とする国家観を、渡辺(2012)は「父なるもの」(p. 59)と表現している。
しかしその石原像を敢えて本作品の鑑賞と批評に反映せず、本作品そのものの表現を分析すると、どのような解釈が導き出せるのか。これが本稿の分析の基本的な視点である。
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