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戦争映画批判への批判 (3/4)

2. 映像分析: 『俺は、君のためにこそ死ににいく』



本作品の最初にはいきなり、石原慎太郎の冒頭挨拶の文句が出てくる。曰く、「私は縁あって、特攻隊の母といわれた島濱トメさんから、隊員たちの秘められた、悲しくも美しい話を聞くことが出来ました。雄々しく美しかった、かつての日本人の姿を伝えて残したいと思います。石原慎太郎」。石原の名に於いて出てくるこの短い挨拶には、石原の思想が既に凝縮されている。「母」「雄々しい」といった表現に現れる性別観、戦時の日本人を「美しい」と思う感性、等等。

言うまでもなく、石原のこういった思想は課題映画の最後まで一貫して影響を与えていると言ってよい。事実、トメさんは"女"たる「母」として"男"たる特攻隊の世話係であり、男たちは果敢に"美しく"散ってゆく。だが、それを根拠に、この映画を一面的に好戦映画と解釈することはできまい。バルトが言う如く、作者は神ではない。"女"が"男"の母であり、"美しく"散った男が描かれていることは完全な事実としてあるが、しかし"美""女""男"といったものそれ自体にメッセージ性は内在しない。それを「解読」し、政治性を持ったメッセージ性を見出だすのはあくまで鑑賞者であって、同時にそれは決して、神のような絶対的作者が発した絶対的メッセージではないからである。

この挨拶文が画面に表示された後、無邪気にはしゃぎまわる飛行訓練生がしばし映し出された後、「思えば、みんな美しか若者たちでございました。」というトメさんのナレーションをきっかけに、行進する兵士の無機質な映像、そして軍部の特攻決定の場面へとシーンが移って行く。ここには一種の対比が見られる。若者/軍部の二項対立は、自由/抑圧の関係にあることを、はしゃぐ若者と統制された軍の描写によって強調している。ナレーションは、過去形で表現することにより、若者の死を暗示させ、その死は軍部による犠牲であったことが強調される。

ここには、好戦というより、むしろ反戦のきらいさえ感じる。その映像の色味の転換、BGMなどは、見る者へ決して良い印象を与えない。

このような、場面の転換を利用した見る者へズシリとくる二項対立が、この映画には随所に見られる。特に印象的なのは、金山少尉出撃前夜のシーンであろう。出撃前最後の宴で盛り上がる中に、高圧的な警官がやってきて、宴を解散させる。その後、宴の後の静けさの中、金山少尉はトメさんにアリランを歌う。ここでも場面の急転換が、見る者を刮目させる。警官/若者は権力者=国家/被支配者の関係を感じさせる。金山少尉は、朝鮮/日本の二項対立を想起させ、ここにも権力関係を感じさせる。

これら一連の二項対立を基調とした映像表現には、「反戦映画」として名高い『ひめゆりの塔』との類似性を感じざるを得ない。

福間(2005)は、『ひめゆりの塔』では、「何の疑いも抱かず、負傷した本土の兵士に一途に尽くす『少女』」が扱われ、そこに「『純粋さ』『清純さ』」を感じたと述べている(p. 71)。そしてその観衆が感じたことは、「世論(大衆的な感情)」(福間、2005、p. 71)であると言う。この本土の兵士を「軍部」に、少女を「特攻隊員」にと読み替えれば、そこには全く同じ構図が見えてくる。

だが同時に、観衆が『ひめゆりの塔』の女学生たちのその「純真さ」に見たものは、「反戦」のみではなかったと福間(2005)は更に続ける。1953年の『キネマ旬報』の記事『ひめゆりの塔・メモ』(調査部による)によれば、この映画は「かげに大きな戦争否定の主題を潜ませている」一方で、「全国民一丸となつて、勝つために、一億火の玉になつて闘つた来た当時の感情」を「郷愁に近い感傷」を伴って呼び起こしかねない「逆効果」を持っている(福間、2005、pp. 71-72より)。『ひめゆりの塔』は1953年に公開された映画であり、そしてその年はちょうどGHQの占領が終結した時期であり、「ナショナリズムに容易に結びつくものであった」(福間、2005、p. 72)。

『ひめゆりの塔』は決して、好戦主義的な意図のもとに製作された訳ではないが、当時の社会状況を反映して、かような好戦主義を起こしかねない風潮すらあったのである。そしてそこにその郷愁を「自ら」見出だしたのは、観衆その人たちであった。

一方、本作品の公開年は2007年である。この時期はちょうど、第一次安倍内閣の時期であり、安倍晋三氏は「美しい国づくり」を掲げて政権運営していた。具体的には、「戦後レジームの解体」(中野、2015、p. 137)を目指し、「防衛庁の省昇格、『我が国と領土を愛する』態度を養うことを教育の目標に盛り込んだ教育基本法改正、教員免許更新制」(中野、2015、p. 137)など、ナショナリズムに結びつきかねない政策を採っていた。かような社会状況を考慮に入れると、石原が製作した本作品に関しても、ナショナリズムや好戦主義と結びつけて批評され得る土壌を十分に持っていたのである。

映画はこの後、若者たちが特攻により散ってゆく様を描きだし、そこには決して、軍部の行動を賛美するような描写は最後まで見受けられない。ただ、最後に"雄々しく"割腹自殺を遂げる大西瀧治郎の描写には、幾分の"男"の"美"学といったものを見出だすこともできるが、しかし特攻作戦発案者の自殺を描く方法としては、このような描写にならざるを得ないのだろう。
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