戦争映画批判への批判 (4/4)
- 2016/12/17
- 11:46
3. おわりに
以上、石原慎太郎の『俺は、君のためにこそ死ににいく』を、敢えて石原慎太郎の思想をその解釈から排除して見てきた。
作者を作品の解釈から除外するという試みは、バルトの思想に依っており、その除外によって、「作者性」に基づいた一面的な解釈と、同時に観衆の側に潜む平和主義を盾にした欺瞞を克服することを目指した。
反戦映画と一般にされる『ひめゆりの塔』と保守派の政治家の製作した映画に、その映像表現に於いて、意外にも多くの共通点があったことが分かる。
そこから結論付けられるのは、とかく好戦主義に基づくとして非難されがちな映画であっても、その実、製作者のイメージや社会状況が反映した結果に過ぎないこともあるということである。そこで「受け取った」メッセージは、その実観衆が「読み取った」メッセージに過ぎない。
本稿に於いてかような、幾分極端な分析を試みた理由は、中道的な立場から、戦争を題材にした映画への正当な評価を希求するためであって、平和主義に基づくものであり、決して好戦主義を助長しようとするものではないことを、最後に読者に向けてお断りして結びに代える。
<文献一覧>
福間良明(2005)「「反戦」の語りと読みのメディア史 : 手記から映画へ: 「ひめゆりの塔」を事例にして(<特集>メディア史研究の方法再考-メッセージの生産と受容の歴史)」『マス・コミュニケーション研究』67巻 日本マス・コミュニケーション学会 67-83
石川美子(2015)『ロラン・バルト』中央公論社
石原慎太郎・監督(2007)『俺は、君のためにこそ死ににいく』東映
加藤久晴(2002)『映画の中のメディア 映画の”輝き”テレビの”闇”』大月書店
調査部(1953)「ひめゆりの塔・メモ」『キネマ旬報』57号 キネマ旬報社 75-77
中野晃一(2015)『右傾化する日本政治』岩波書店
渡辺望(2012)『国家論 石原慎太郎と江藤淳。「敗戦」がもたらしたもの—』総和者
以上、石原慎太郎の『俺は、君のためにこそ死ににいく』を、敢えて石原慎太郎の思想をその解釈から排除して見てきた。
作者を作品の解釈から除外するという試みは、バルトの思想に依っており、その除外によって、「作者性」に基づいた一面的な解釈と、同時に観衆の側に潜む平和主義を盾にした欺瞞を克服することを目指した。
反戦映画と一般にされる『ひめゆりの塔』と保守派の政治家の製作した映画に、その映像表現に於いて、意外にも多くの共通点があったことが分かる。
そこから結論付けられるのは、とかく好戦主義に基づくとして非難されがちな映画であっても、その実、製作者のイメージや社会状況が反映した結果に過ぎないこともあるということである。そこで「受け取った」メッセージは、その実観衆が「読み取った」メッセージに過ぎない。
本稿に於いてかような、幾分極端な分析を試みた理由は、中道的な立場から、戦争を題材にした映画への正当な評価を希求するためであって、平和主義に基づくものであり、決して好戦主義を助長しようとするものではないことを、最後に読者に向けてお断りして結びに代える。
<文献一覧>
福間良明(2005)「「反戦」の語りと読みのメディア史 : 手記から映画へ: 「ひめゆりの塔」を事例にして(<特集>メディア史研究の方法再考-メッセージの生産と受容の歴史)」『マス・コミュニケーション研究』67巻 日本マス・コミュニケーション学会 67-83
石川美子(2015)『ロラン・バルト』中央公論社
石原慎太郎・監督(2007)『俺は、君のためにこそ死ににいく』東映
加藤久晴(2002)『映画の中のメディア 映画の”輝き”テレビの”闇”』大月書店
調査部(1953)「ひめゆりの塔・メモ」『キネマ旬報』57号 キネマ旬報社 75-77
中野晃一(2015)『右傾化する日本政治』岩波書店
渡辺望(2012)『国家論 石原慎太郎と江藤淳。「敗戦」がもたらしたもの—』総和者
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